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猫になくて私にあるもの=期待

 実家には猫が二匹いる。すみちゃんと、たけちゃん。 とにかく可愛がられている。 寝てたら、「見て見て、寝てる~♡」 ご飯食べたら、「ご飯食べたね~♡」 うんちしたら、「うんちしたね~♡」 まあ私も一緒になってこれをやっているんだけど。 だけど、いつもそんな猫たちと飼い主たちを見て思うことがある。 実家にいる時、 私が朝ごはんを食べて、食器をシンクに持って行って、後で洗おうと思って放置していると、 「自分で食べたお皿くらい洗っておいてよ。」と怒られるのだ。 実家でダラダラしていると、 「家にいるんならちょっとくらい家事手伝ってよ。」と言われる。 、、、なんで猫はダラダラしてるだけで褒められて、私は怒られるんだ、、、?? この違いは一体何だ、、、? と、ふと感じた。 私だってうんちしただけで褒められたい。 ダラダラしてるだけで可愛いと言われたい。笑 この違いについて、考えてみると割とすぐに答えは出た。 「私は期待されている」ということな気がする。 みんな、猫が、自分が食べたお皿洗ってくれるなんて1ミリも期待していない。 家事を手伝えるなんて端から思ってない。 だから、やらなくてももちろん怒らないし、落胆もしない。 そこに存在しているだけで肯定される。 だけど、私はお皿洗えるし、家事を手伝える能力を持っている(自分で言いながらバカみたい笑)。 だから、私に期待して、その期待が裏切られたときに怒るんだ。 もはや、存在しているだけでは肯定されない、、、(悲) でも、これって結構深い考察かもな、と思った。 1年前くらいにパートナーとの関係で悩んでいる時のメインテーマは、「期待」だった。 どうしても、相手に期待をしてしまう。 そしてその期待が裏切られると、悲しかったり、その裏返しで相手に当たってしまう。 そして、その事実に客観的に気付いて、自己嫌悪になる。 「私が期待しすぎだったんだ」 「じゃあ、もう一切期待しないようにしよう」と思ったこともあったけど、 「果たして一切期待しない関係って、それってパートナーなんだろうか?」と感じて、結局この時答えは出なかった。 全く期待しない関係って、意味ある? 期待をして、それに応えてくれるから、一緒にいる。 それはお互いに。 他人とパートナーで違う点って、期待しているかどうかじゃないのかな、、、 でも、期待しているからこそ、摩擦も生じ...

小さい世界で生きること

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久しぶりのブログ。 最近全然日記を書いていない。 というのも、悩むことがあんまりないのだ。 目の前の、日々の生活を心地よく生きられている。 最近というと、素敵な野菜屋さんで働き始めた。これが本当に私に合っている。 季節の野菜が可愛すぎる。 野菜のことを学べるし、この野菜たちを美味しく食べたいと思って、毎日の食事への姿勢が変わった。 季節の野菜を、ゆっくり、シンプルに食べる。質素な食事ほど、豊かだと思うようになった。 そのほか、日々の生活の中に楽しいことがたくさんある。 ぬか床を始めた。ぬか床を毎日回して、好きな野菜を入れるのが楽しい。 お味噌汁を作る。洗濯物を干す。 刺繍をする。最近はかぎ編みも始めて、ラグを作ってる(めっちゃ大作になりそう)。 もちろんYouTubeも見るよ。 栗の渋皮煮を作る。干し柿を作る。金木犀のシロップを作る。 1年前から色んなチンキ(植物のアルコール漬け)を作り始めて、今はそれで化粧水を作ってる。 枇杷の葉、オリーブの葉、ドクダミの花、柿の葉、よもぎ、柚子の種、、、 もうすぐ花梨が出てくるから、花梨のチンキも作りたい。 渋皮煮。まあまあうまくできた。 ぬか漬け。楽しすぎるのだ。お気に入りは菊芋。 初めて干し柿作った。 完全に乾く前に食べちゃったけど、マジで美味しかった。 「和菓子の甘さは干し柿をもって最上とする」と言われるのが分かる。 そう、本当に毎日が楽しいのだ。 私は今、小さな世界で生きてる。 今までは、小さい世界で生きることについて、もっと軽く見ていた。 大きな夢を持ち、そこに向かって行動することが「生きる」ことだと思っていた。 社会を変えることに向かって生きることが「正解」みたいな。 目の前の現実をただ生きることは、ある意味諦めた人だと思ってた。 (もしかしたら、私はある意味何かを諦めたのかもしれない。) でも、今、私は日々の生活が楽しい。 だから、日記も特に書くことがない。笑 (今この生活を正当化したいだけなのかもしれないけど、) 目の前の日々を小さく生きることにこそ、真理が隠れている。そんな気もしている。 「こんなんでいいんだろうか? もっと ”ちゃんと” した方がいいんじゃないか、、?」 って思う瞬間もあるけど、しばらく考えるとやっぱり戻ってこられる。 これでいいんだ。