宿という箱の中身
宿は箱に過ぎない。
前々から気付いてたけど、ある宿に泊まって改めて思った。
小豆島の橡人(もくじん)という宿に泊まった。
とっても素敵な宿だった。という言葉では薄っぺらいと感じるくらい、ご夫婦のこだわりや哲学が、宿や彼らの暮らしの中にある場所だった。
あの2人が、自分たちの暮らしの中で本当に良いと思ったものを厳選して置いている。
そして彼らは、建物や空間や暮らし方もすべて含めて「自己表現」として考えていた。
以前静岡でカフェをやっていたけど、表現できる幅に限界を感じたから小豆島に引っ越してきたらしい。
建物、空間、日用品、食べ物や飲み物、、、色々な角度から、彼らのこだわりが感じられた。
彼らが思う豊かさや美しさを全身で表現するために、橡人はある。そう感じた。
面白いなと思ったのは、彼らのやりたいことが「自己表現」であること。
お洒落な宿をつくって流行らせたい訳でもないし、泊まっている人に何か強い影響を及ぼしたい訳でもないように感じた。
あくまで、自分たちの自己表現、暮らしの提案として橡人をやっている。
すごく心地よくて素敵だったけど、私とは違くて面白いなと思った。
彼らのやり方はこれだったんだな、とスッと入ってきた。
それにしても、宿をやる目的は本当に人それぞれで面白いなあと思う。
宿を箱だとすると、その箱の中身がそれぞれ違う。
私は、色々な宿に泊まるのが好き。
それは、「なんでこの宿をやっているんだろう?この人の哲学はなんだろう?」って、その宿の背景を考えるのが好きだから。
鎌倉のaiaoiは完全に作品だった。作品のための宿。
石徹白のあわ居は対話のための宿。
氷見のHOUSEHOLDは余白を楽しんで来た結果できた宿。
今回の橡人は、彼らの暮らしの中にある自己表現のための宿。
なんていうんだろう、、、全部本当に素敵だった。
たぶんそれは、どの宿も彼らが自分たちの自然な心に従ってきた結果だから。無理してないのに芯がある。そこが私にとって魅力的なんだと思う。
私は、大学生の時に沖縄の民宿に泊まったことがきっかけで、いつか小さな宿をやりたいなぁって漠然とずっと考えていた。
でも、色んな宿に泊まったり、宿づくりの講座を受けたり、今回徳島で実際に働いてみたりする中で、自分が宿をやりたい本質的な理由がだんだん分かってきた。
私が宿をやりたい本質的な理由。
「相手に安心してほしい」
私は、人と話すことが好きだ。対話が好きだ。
その人の話す表面的な言葉から、その人の本当の気持ち、本当はやりたいこと、その人本来の魅力を一緒に見つけていく作業が大好きだ。
本当の気持ちに気付いて、その気持ちをその人がそのまま受け入れられた時、その人の声や表情がすごく明るくになる。
相手が前向きな気持ちになっているのを感じる。
そういう時、私の心はすっごく満たされる。
自分の心の中に優しさや思いやりが溢れてくるのが分かる。
私はこの時間が大好き。私の生きがいはこの時間のような気さえしてる。
でもそういう対話って、やっぱりある程度一緒に過ごす時間が必要だと思う。それから、お互いにリラックスしてることも大事だと思う。
カフェだと長くて滞在時間3時間くらいだし、不特定多数の人が来る場所だと向き合い切れなかったりする。
そういう意味で、宿という形は私のやりたいことが実現しやすいんじゃないか。
だから、私は宿をやりたいって思っていたんじゃないか。
私の宿という箱の中身。
これを中心に形を作っていくことが、自分の仕事をつくっていくことのような気がしてる。