弊害

感受性を開いて生きていくのって難しい。

人よりもたくさんのものに反応してしまう。
「この人はなんでこういう言い方をするんだろう?」
情報が多すぎて、処理できなくなって苦しくなる。最悪涙が出てくる。放心状態になる。


最近、自分の感性が澄んできているからこそ、少しの事実や刺激からたくさんのことを受け取れるようになってきたからこそ、
東京の電車の中の情報過多に、同じ感受性じゃない人のあまり考えてない発言に、すごく反応してしまう。

なんでこの人は人を見た目だけで断定しちゃうんだろう?なんで中国人ってだけで嫌うんだろう?「普通は」とか「それはダメ」とか言えるんだろう? 悲しい。

悲しくなるから心を閉じる。コミュニケーションを諦める。
心を開いて会話した分、傷つく発言が私の心の内側に刺さってしまうから。


情報が多すぎるから感受性を閉じる。目を閉じる。
わざと、世界を白黒にする。わざと、無関心になる。
そうすると、少しだけ心の平穏は保たれる。
でも、世界に心を閉ざしている事実に悲しくなる。頑張って心を閉ざすことだって体力が要る。


感受性が開いている自分のことは大好き。でも、だからこそ生きていくのが辛い時もある。
場所や人や状況を選ばなきゃいけなかったりする。

適当に、何も考えず流せられればいいのになって思う。そうしたら楽なのに。
でも、そうなると、今私が感じてる人生の深さはなくなってしまうのだろうか。


ぐるぐる。自分を大切にして生きていきたい。

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