投稿

8月, 2024の投稿を表示しています

売るのは最後でいい。

  私は、「つくっている」という感覚が好きだと分かった。 つくったものを売ったり、それで十分な収入を得たり、そういうことは別の話。 自分の生活の中で必要なものを、自分でつくる。 それが、私にとって幸せであり、豊かさである。 この感覚を言語化できて良かった。   「できること」は、「すべきこと」 「つくれるもの」は、「売ればいいじゃん」 自分も含め、一般的にはこう考えがち。苦しくなる。 でも、売る、というのは一番最後でいいと思う。 自分が必要な分、家族が必要な分、友達が必要な分。それでも余るなら、売る。 すぐに義務や経済性に結びつけず、余白を残して自分の心に素直になりたい。

竹の油抜き

イメージ
竹虎インターン3日目は、一日中【油抜き】作業だった。 油抜きとは、 竹の表面についている油や汚れを火で炙って浮かし、拭き取る作業のこと。 (詳しくは竹虎さんのHPに詳しく載ってます。 → こちら ) バーナーの炎の中に竹を入れるのだが、とにかく暑い。 そして、竹が熱い!! 拭き取り用のタオルの上からでも熱いし、たまに手が滑って直接竹に触っちゃって火傷する。 さらに、炙りすぎると、竹の節と節の間の空気が膨張して、 バン!! って竹が破裂する。(「ボヤ」と呼ぶ) もうこれがとにかく怖かった、、、泣 もちろんボヤが起きるとビックリするけど、 ボヤが起きなくても、 「ボヤ来るかも、、ボヤ来るかも、、、」とドキドキしながら熱い竹を拭くのが辛かった。 ずっと黒ひげ危機一髪やってるみたいな。もっと怖いけど。 暑いし熱いしボヤが怖すぎるし、2日目の 目打ち の作業に比べて苦手な作業だった、、、 という感じで、油抜きの作業が終わった時は、「やっと終わった、、辛かった、、、」と思っていたのだが、 夜、寝る前に一日を振り返ると、楽しかったと思えた。 なんでだろう? たぶん、素材に触れていたからだ。 シンプルな作業の繰り返し。 でも、扱っているものが天然素材の竹だったから、自然と癒されていたんだと思う。 一つ一つ太さや模様の違う竹。 竹を火に入れて油を抜く。 竹の性質があるからこその作業という点も、心地よかった。 それに、こんな高知の工場のすみっこで、竹の油抜きをしている自分オモロいな笑、とたまに俯瞰して思ったりしてた笑 こんな所でこんな作業を楽しめている自分が好きだ。と思った。 私は、素材に触れていると癒されるということ。 また新しい気付きが増えて嬉しい。 油抜き前の竹。表面が白く曇っている。 油抜き後。艶が出て色も濃くなる。

じゃあ私の仕事って一体なんなんだ!!

イメージ
今、高知にいる。 高知にある竹虎という竹細工工場のインターンに参加するため。 インターンに参加して思ったことを記録しておく。 そもそもインターンに参加しようと思ったのは、手仕事に興味があったから。 去年会社員を辞め、自分にとっての違和感のない生き方を探し始めた。 その中で、手仕事が好きということを再認識して、手仕事を仕事にすることに興味があった。 竹虎の商品をたまたま購入し、インターンの存在を知って、参加することにした。 初日で気付いたこと。 私は、手仕事を仕事にしなくてもいいのかもしれない、ということ。 ちょっと前、松徳硝子というガラス工場を見学させてもらったけど、その時と同じ印象を受けた。 工房ではなく、工場。 作品というより、製品。 確かに扱っているものは職人さんが手仕事で作っているんだけど、その前にビジネスだった。 つくりたいものより、売れるもの。 より質を高く、安価に。 なんていうんだろう、これはこれで自然なことだし、 竹や硝子の文化を守っていくためには儲けないと続かない。それはその通りだと思う。 だけど、私個人がそれをやりたいかと言われると、違うと思った。 私が「手仕事」という言葉を使う時、「作家性」の意味合いが含まれていることを認識した。 私にとっての手仕事は、趣味でいいのかもしれない。 自分が欲しいもの、生活に必要だと思うものを自分でつくる。 それだけで、私にとっての豊かさは満たされると思った。 できることを、すべきことにしなくてもいい。 私は手仕事が得意で大好きだけど、でもそれを収入のメインにして生計を立てる義務はない。 「得意なこと、好きなことを仕事にしなきゃいけない」と、いつの間にか自分にプレッシャーをかけていたことに気付けた。 やりたくないことをやる義務もないけど、 好きなことを仕事にしなきゃいけない義務もない、、、、、。 、、、でも、じゃあ私の仕事って一体なんなんだー!!

ビュッフェに行くと、欲が出る。

イメージ
久しぶりにビュッフェに行って思ったこと。 ビュッフェがあまり好きではなくなった。ことに気付いた。 なぜかというと、自分の中に欲が生まれるから。 自分の中の欲を感じて、貧しくなるから。 友達に誘われて、一人 2,200円のランチビュッフェ行った。 オーガニックにこだわっているお店で、どれも美味しそうだった。 「全種類試したい。好きなものをお腹いっぱい食べたい。元とりたい。」 わざわざ考えなくても、無意識にそう思いながら食べてた。 次は何を食べようか考えながら、目の前にあるものを食べる。 、、、、、全然味わえない!! え、これ、今わたし全然味わえてない。 頭がどんどん先のことを考えて、目の前の料理をゆっくり見れない。 もしかしたら、私が特に卑しいからこう感じるのかもしれないけど、割とみんなそうだよね? なんともったいない、悲しい食事なんだ。と、そう思ってしまった。 かといって、じゃあ、 ビュッフェに行ったとしてもそんな事を気にせず、ゆっくり・ちょっとだけ・腹八分目で楽しめるのかって言われたら、そんなことはできない。 どうしても考えちゃう。 だったら、 最初から限られた量を提供してもらって、それをゆっくりと味わいたい。 限られた量だからこそ、その料理のすみずみまで味わう。 限られた量だからこそ、その有難みを感じる。 そっちの方が、私にとってよっぽど豊かな時間だ。 小さい頃や、大学生くらいまで、 てか、つい最近まではビュッフェ大好きだったような気がする。 好きなものを好きなだけ取って食べるのって楽しいよね。 って思ってたんだけど、久しぶりに行ってみて、せかせかして食べてる自分に気付いてしまった。 「食べ物を味わう」ってことを知ってしまったようです。 確実に価値観が変わってきている。 忘れられない、あの宿の料理。