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ブータン

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ブータンに行ってきた。 ブータンで、印象に残ったこと、チベット仏教。 チベット仏教、とても素敵だった。 チベット仏教のお寺がすごく好きだった。 色遣いや雰囲気も独特でもちろん好きだったけど、 何よりも、チベット仏教が人々の生活や心の中に染み込んでいる事がとても良かった。 観光名所としてではなく、日々のお祈りの場所としてお寺に人が来ている。 町の至るところで仏教に関するものが目に入る。 お寺が、「神聖な場所」として今も現役で機能している。人々の心の拠りどころになっている。その事実が、その場所のオーラをより強くさせていた。 やっぱり、ブッダすごいわ。 私が以前参加したヴィパッサナー瞑想はあくまでも実践法という形で、 今回のチベット仏教は宗教という形で、 形は色々だけど、2500年たっても人々に広く長く影響を残している。 一人の人間の思想が、2500年経ったらこうなるのかー、、、 日本の仏教との違いを感じて、仏教の広がりがどれだけ大きいかを実感した。 一方で、思ったこともあった。 「宗教は、ヒントでしかない」 崖の側に立つお寺で毎日修行する尼さん。お寺の周りを108回回っている人。 シンプルにそれを実行に移せることに対して、すごいとは思う。 だけど、私にはあまりピンと来なかった。 何か特定の宗教の経典や歴史について、何もかもを暗記したとしても、その宗教の目指す状態には決してなれない。と思った。 言い換えると、その宗教の創始者が望んでいる状態とは、経典を鵜呑みにして実行する事なんだろうか、と疑問を感じた。 昔、自分よりも前に生きていた人が、「よりHappyに生きるには」について一生かけて考えた結果が一つあるだけ。それが広がっただけ。 もちろん、先人たちの真実はとても参考になる。 でも決してそこに「自分の答え」はない。 ブッダの真実、キリストの真実、ムハンマドの真実、、、、どれだけ完成されているように見えても、それは私にとっての真実とは限らない。 答えは自分の中にある。それぞれの自分の中にある。 答えを自分の外側に、「宗教」に求めると、争いが起きたりするのかな。 「それぞれの中に、それぞれの答えがある」ということをみんなが理解したならば、どんな世界になるんだろう。 私は、やっぱり私の真実を見つけたい。 そう思ったブータン旅行だった。

ヴィパッサナー瞑想

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11月の10日間、千葉にてヴィパッサナー瞑想合宿に参加してきた。 10日間、瞑想センター内に滞在し、朝から晩まで瞑想をする。 その間、他の参加者とは一切コミュニケーションをとってはいけない。 携帯はもちろん、読む物や書く物も全て持ち込めない。 今までにない、かなり独特な体験をして、そこで考えたことや感じたことが色々と多すぎた。 その中で、今自分が一番感じている感想を今回は記録する。 (ヴィパッサナーは、「物事をありのままに見る」という意味の、ブッダによって再発見されたインドの古い瞑想法。詳しくはググって調べた方が早いと思うので説明は割愛します。)                 コースを終え、今自分が一番感じている感想。 私はブッダになりたい。 この人、遂にやばい事言い出した、、、って思ったと思います。 この気持ちの詳細や背景をこれから書くので、どうかここで読み止まらないでください。笑 数年前から、気付いたら「BIGになりたい」という気持ちを持っていた。 きっかけとか理由は今でも全然分からないんだけど、自分が持っている個性や才能を活かして何かを成し遂げなければならない、みたいな漠然とした使命感を感じていた。 どういうBIGなのかといういうと、お金持ちになるとか、有名になるとかではない。 自分の才能を使って、多くの人の心に良い影響が与えられるような、そういうBIG。 強いて例えるのであれば、ブッダだなと思っていた。 (以前から、苦しみや人の心に向き合い続けて彼なりの真理を発見したブッダに共感を感じていた) でも、ブッダと言いつつも、2500年前の人だし、言っているだけというか、 自分とはかなり遠い存在だと思っていた。まあそりゃそうだよね。 でも、 今回ヴィパッサナー瞑想に参加して、やっぱり「ブッダ」という状態が私が今まで感じていたBIGに最も近い状態だと改めて思った。 今回認識が正されたこと、 それは「釈迦」や「ゴータマ・シッダルダ」は、特定の個人を指すのに対し、 「ブッダ」というのは、完全に解脱した人の事を指す。つまり、その状態を指すのであって、特定の個人を指す言葉ではない。 だから、誰でもなれる。 また、ヴィパッサナーにおける物事の真実とは、「全てのものは生まれ、滅する。つまり全てのものは無常である」ということ。そしてそれを頭だけでなく経験として理解した人のことを...

素「moto」

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  私は、これから「対話」や「言語化」を仕事にしていきたいと思っている。 その最初の小さな一歩として、 電話で 素「moto」を始めます。 この思いに至るまでの過程を、ひとつひとつ書いていきたい。 ゆっくり読んでもらえると嬉しいです。                     なんで「対話」を仕事にしたいのか。 それは、私の個性や能力を使って、誰かが前に進む手伝いをしたいから。 対話を通して、その人の気持ちが整理され、前向きな気持ちになった時、私の心はすごく満たされるから。 私の個性や能力とは何か。 それは、言葉で気持ちを整理すること。客観的に論理的に考えること。 そして、自分自身を一番大切に考えること。 少し周り道して話します。 私は、小さい頃から何でも深く長く考えてしまう性格だった。 だから、色んな事を考えすぎて、頭の中が思考でいっぱいになって、処理が追い付かなくなってしまうことがあった。 それで、高校生くらいから、思考が溜まってきたら思っていることをそのまま紙に書き出す作業を始めた。 言葉として紙に書き出すと、最初はぐちゃぐちゃだった思考が段々と整理されてきて、 最終的には1つの答えが見えてくる。 なんとなくモヤモヤしていた気持ちの理由が分かったりする。 客観的な自分と主観的な自分が紙の上で対話する感じ。 受験だったり、恋愛だったり、将来の方向だったり、 人生の岐路では、そうやって自分の気持ちや状況を整理して、私は前に進んで来た。 言葉を通して自分の気持ちに向き合い続ける中で、 自分自身を一番大切にすること、それが回り回って他の人にとっても良い未来に繋がるということを実感してきた。何度も。 深く考えてしまう自分の性格、 言葉を通して気持ちを整理して前に進んで来た経験。 そしてそこから学んだこと、自分を大切にする気持ち。 これが今の私をつくっている。 誰かと何気なく話している時、 相手の悩みや気持ちに対して出た自分の言葉や、 私との会話によって、その人の声や表情が明るくなった、という経験が今までに何度かあった。 そういう時、本当に私の心は満たされる。他のどんな時間より、私の心の中に残っている。 ああいい時間だったなって思う。 会社を辞めて、自分の仕事をつくっていこうって考えた時、 自然とこの時間を仕事にしていきたいと思っていた。 変えられない自分の性格、経...

弊害

感受性を開いて生きていくのって難しい。 人よりもたくさんのものに反応してしまう。 「この人はなんでこういう言い方をするんだろう?」 情報が多すぎて、処理できなくなって苦しくなる。最悪涙が出てくる。放心状態になる。 最近、自分の感性が澄んできているからこそ、少しの事実や刺激からたくさんのことを受け取れるようになってきたからこそ、 東京の電車の中の情報過多に、同じ感受性じゃない人のあまり考えてない発言に、すごく反応してしまう。 なんでこの人は人を見た目だけで断定しちゃうんだろう?なんで中国人ってだけで嫌うんだろう?「普通は」とか「それはダメ」とか言えるんだろう? 悲しい。 悲しくなるから心を閉じる。コミュニケーションを諦める。 心を開いて会話した分、傷つく発言が私の心の内側に刺さってしまうから。 情報が多すぎるから感受性を閉じる。目を閉じる。 わざと、世界を白黒にする。わざと、無関心になる。 そうすると、少しだけ心の平穏は保たれる。 でも、世界に心を閉ざしている事実に悲しくなる。頑張って心を閉ざすことだって体力が要る。 感受性が開いている自分のことは大好き。でも、だからこそ生きていくのが辛い時もある。 場所や人や状況を選ばなきゃいけなかったりする。 適当に、何も考えず流せられればいいのになって思う。そうしたら楽なのに。 でも、そうなると、今私が感じてる人生の深さはなくなってしまうのだろうか。 ぐるぐる。自分を大切にして生きていきたい。

イライラはチャンス

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 「イライラってチャンスだと思うんだ」 岐阜・石徹白のあわ居という宿に泊まった朝、そこの奥さんからもらった言葉。 それを聞いてから、イライラに対する考え方が変わった。 これは、既に私の中で定着している考え方。 だからわざわざ自分のためにもう一回まとめる必要はなかった。 それでも書きたいと思ったのは、この文章を読んでくれた人に、この考え方を知ってほしいという思いが強かったからだと思う。 だから、今回の文章は自分のためではなく、これを読んでくれている人に向けて書きます。              「イライラはチャンス」 端的に言えば、イライラという感情は、心と頭の間にズレが生じてるサイン、ということ。 心が本当にやりたいことと、実際に今起きていることがズレてるよっていうサイン。 「イライラって、二次的な感情って言われていて、そのもう一つ根っこにその原因となる感情がある。 例えば、本当は何かをしてほしいけど、それが思った通りじゃないからイライラしちゃう。 だから目の前の人がイライラしている時は、何かをしてほしい時、それが表れてるんだと思ってる。だからイライラってチャンスだと思うんだ。」 私は、実は結構イライラしてしまう方だ。 予定通りに行かない時、疲れてる時、相手が思った通りの行動をしてくれない時。 イライラすると、頭の中がイライラでいっぱいになってしまって、 ハッピーな状態に戻った方がいいのを分かっていても、上手く自分の中で整理できない。 その結果相手にぶつけちゃったり、一人になって適当にやり過ごしたり、無理やり抑え込んだり、、、。 イライラしてる時ってホントいいこと生まれなくて、「イライラの感情=悪」って思ってた。 だから、「イライラはチャンス」って言葉を聞いた時、私の考えと真逆ですごく響いた。 そうか。彼女はそう考えるんだな。 その考え方を知ってから、行動が少し変わった。 イライラした時、「あ、」と思って考えてみる。心と頭の間でどういうズレがあるのか。 本当は疲れてるのに、”そういう予定だったから”って無理に行動してるわ自分。休も。 本当はありがとうって言ってほしかったのに、言ってもらえないから悲しいんだわ。って素直に伝えてみよう。 イライラの気持ちに他人が関わっている場合は、相手にイライラの根っこの気持ちをプラマイゼロで伝えてみる。そうすると、意外に素直に...

宿という箱の中身

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宿は箱に過ぎない。 前々から気付いてたけど、ある宿に泊まって改めて思った。 小豆島の橡人(もくじん)という宿に泊まった。 とっても素敵な宿だった。という言葉では薄っぺらいと感じるくらい、ご夫婦のこだわりや哲学が、宿や彼らの暮らしの中にある場所だった。 あの2人が、自分たちの暮らしの中で本当に良いと思ったものを厳選して置いている。 そして彼らは、建物や空間や暮らし方もすべて含めて「自己表現」として考えていた。 以前静岡でカフェをやっていたけど、表現できる幅に限界を感じたから小豆島に引っ越してきたらしい。 建物、空間、日用品、食べ物や飲み物、、、色々な角度から、彼らのこだわりが感じられた。 彼らが思う豊かさや美しさを全身で表現するために、橡人はある。そう感じた。 面白いなと思ったのは、彼らのやりたいことが「自己表現」であること。 お洒落な宿をつくって流行らせたい訳でもないし、泊まっている人に何か強い影響を及ぼしたい訳でもないように感じた。 あくまで、自分たちの自己表現、暮らしの提案として橡人をやっている。 すごく心地よくて素敵だったけど、私とは違くて面白いなと思った。 彼らのやり方はこれだったんだな、とスッと入ってきた。 それにしても、宿をやる目的は本当に人それぞれで面白いなあと思う。 宿を箱だとすると、その箱の中身がそれぞれ違う。 私は、色々な宿に泊まるのが好き。 それは、「なんでこの宿をやっているんだろう?この人の哲学はなんだろう?」って、その宿の背景を考えるのが好きだから。 鎌倉のaiaoiは完全に作品だった。作品のための宿。 石徹白のあわ居は対話のための宿。 氷見のHOUSEHOLDは余白を楽しんで来た結果できた宿。 今回の橡人は、彼らの暮らしの中にある自己表現のための宿。 なんていうんだろう、、、全部本当に素敵だった。 たぶんそれは、どの宿も彼らが自分たちの自然な心に従ってきた結果だから。無理してないのに芯がある。そこが私にとって魅力的なんだと思う。 私は、大学生の時に沖縄の民宿に泊まったことがきっかけで、いつか小さな宿をやりたいなぁって漠然とずっと考えていた。 でも、色んな宿に泊まったり、宿づくりの講座を受けたり、今回徳島で実際に働いてみたりする中で、自分が宿をやりたい本質的な理由がだんだん分かってきた。 私が宿をやりたい本質的な理由。 「相手に安心してほし...

今日、神山を出た。

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今日、神山を出た。 いつも通りどこかへ遊びに行くように出発したけど、もう戻ってこないのか。 まだ消化しきれてないこの段階で、神山での1か月を振り返ってみる。 1か月とは思えないような濃さだった。 ずっと神山にいたような気がした。そしてずっといられるような気もした。 この1か月で、自分の感覚を確かめながら、さらにその輪郭がハッキリしてきたような気がする。    自然とともに暮らす。そんな他人事みたいな言い方じゃない。 むしろ、合理的に暮らす。その方がしっくりくる。 ものの来る所と帰っていく所を知って、その工程に携わる。 そうするとムダが見えてくる。遊びが見えてくる。自分の知恵が入り込む隙間が見えてくる。 鹿の解体をして、藍染めの工程を知って、栗の渋皮煮を作って、薪ストーブに火をつけて、神山の杉に囲まれて、じわじわとそんな感覚が染み込んできた。 その感覚がすごく心地よかった。どれも本当に楽しかった。 自分に合っている。改めて考えなくてもそんなの分かった。 この神山での1か月は、私の人生で来るべくして来たタイミングのように思う。 自分の「好き」に敏感になってきたタイミング、自分の感覚をより自覚して捉えられるようになってきたタイミング。 感じ取るものがすごく多かった。と言っても、衝撃的な出来事!!みたいなのは別になくて、初めての経験や場所なのに私の中にスッと入ってくる、そんな感覚を何度も経験した、という感じ。 色んな意味でぴたっときた神山だったけど、1か月という期間を伸ばそうとは思わなかった。 大切な事は既に知っている。自分の感覚を掴んできた今、次のフェーズに行く時が来ているような気がしているから。 今後の予定は、ヴィパッサナー瞑想に行く、ネパールに行く、ブータンに行く。 これからまた一つ、自分が変化していくような、むしろもっと自分に近づいていくような、そんな予感がしてる。

私の考え方の土台、生物学

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私の考え方の土台、生物学。 もちろん他のいろんな経験や考え方にも影響されているけど、これが広く土台になっているのは間違いない。 私が生物学にはまったのは、高校の生物の授業。 生物の進化における「自然淘汰」の概念を知った時から。 それまで「進化」って、ピカチュウがライチュウになるみたいに、う~~~ん.......パ!!!って進化すると思ってた。キリンは、「首を伸ばしたいよ~~」ってキリンが思って自分で伸ばしたと思ってた。 でも実際はそうではなくて、自然淘汰によって進化してた。 例えばキリンで言うと、 まだ首の長くなかったキリンの祖先の中に、たまたま突然変異で首の長い個体が生まれて、しばらくはごちゃ混ぜのまま生活できてたけど、何らかの理由で上の方の葉っぱを食べられる個体がより生存に有利な環境になって、首の長い個体だけが生き残れた。 そうすると生き残った個体はほとんど首の長い個体だから、結果的の首が長いという特徴はその種全体のものになる。 これを繰り返していって、キリンの種はあんなに長い首を獲得した。 これが自然淘汰、進化の実際。 当時の私にとってはまじで目からウロコだった。 これを知った日のお風呂は今でも覚えてる。 湯舟で自分の体を眺めながら、 じゃあ、私の手の指が4本でもなく6本でもなく5本なのも、 その中でも親指だけがちょっと離れているのも、 眉毛がここにあるのも、 暑いときは汗をかいて寒いときには震えるのも、 全部全部の特徴にあの過程があったということか、、、、、? それって、信じられないくらい莫大な時間がかかってるじゃん、、、、、 そう思った瞬間、私の頭の中で宇宙が爆発して、ピューーーーっと宇宙に放り出されて地球が小さくなっていって、 途方もない時の流れに押し潰されそうになった。 え、てことは、私のこの体には、地球46億年の歴史が詰まっているってことじゃん、、、! 私のこの体がつくられるのに、途方もない時間がかかっている、、、 私の体は、地球の歴史そのものなんだ。そう思った。 静かだけど物凄く巨大な力にぶっ飛ばされるような衝撃だった。 それから、生き物に対する見方が変わった。 なんでこんな形をしているんだろう。この形質を獲得した背景はどんな環境だったんだろう。 特にワクワクするのは、これらの特徴は誰かが頭で考えたのではなく、 莫大な時間をかけて淘汰されてきたもの...

この感覚を信じる

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この数か月の感覚の変化を記録しておきたい。 6月の初めに涙が止まらなくなって会社を休み始めてから4か月くらい、 確実に感覚が変わってきている。 保険をかけるのはやめた。 「しておいた方がいい」からするのをやめた。 「したい」と思うものだけをする。自然とやる気になるものだけをする。 自分の心に耳を澄まして「今」やりたいことをする。(いつかのために、今やった方がいいことではない) 会社内で一回異動して、それでも全然ダメで確信した。保険をかけた選択をすると、後からその保険の部分が障害になってくる。 もう、選択肢や可能性を残しておく選択はやめた。自分のやりたいと思えることや、好きなことで選ぶ。 マイナスを減らすんじゃなくて、プラスが強いところを選ぶ。 そうして過ごしているうちに、感覚が変わってきた。 自分の「好き」に敏感になった。 直感や感覚が研ぎ澄まされていく感じ。 自分の心の動きを客観的に捉えられる感じ。 言葉で表現するの難しいなー。でも「自分の人生を生きてる」って感じがするんです。 さらに、この感覚を信じることに確信を持てるようになった。 それは、この感覚に従って実行に移したこと同士、好きなこと同士がどんどん繋がってきたから。 思わぬところで繋がっている。またその先に魅力的な人や場所がある。そしてそれは元々好きだった人と繋がっている。 こっちの道でいいんだ、私はやっぱりこっちなんだ!!そういう事が何度もあって、確信した。 自分の好きなことがどんどん繋がって、集約されていく。 でも行動したのは自分だし、選択したのも自分。 好きなものに素直に従っていたら、だんだんその「好き」が大きく、強く、明確になってきた。 この感覚を信じること。私の人生は幸せへ向かっている。

感情至上主義

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感情至上主義。 いつからか、私は自分の考え方をそう呼んでいる。 自分の感情を絶対に否定しない。 「いい彼女にならなくちゃ。だから、彼のやっていることを心の底から応援しなくちゃ」 「生物学が好きでここまで来たんだから、研究者にならなくちゃ」 そう、 無意識に 思っている時期があった。 本当は不満がある。本当は応援できない。本当は研究が辛い。 だけど、そう思うのは私の努力が足りないから。私が未熟だから。そう考えてた。 だから、もっと頑張らなくちゃ。 ある程度はそれで走れる。けど、そういう時はどんな時も、ぶわっと、ひずみが表面に現れてくるタイミングがあった。 涙が止まらなくなったり、相手にひどいことを言って最低な自分になったり。 いつか、本当に辛いのに、だれにも相談できなくて(というか分かってもらえる人が一人もいなくて)、 いのちのホットラインみたいなところに電話をかけたことがある。 私の性格も背景も知らないおじさんに、その時感じてることを話した。 「彼を受け入れて応援しないといけないのに、今の状況をどうしても嫌だと思ってしまって応援できない。」と伝えると、 「それは嫌ですよ。それが、普通な感情ですよ」って肯定された。 その時、心がすごい解けて荷が降りたのを覚えてる。 そうだよね!これが普通な感情だよね!私は、嫌なものは嫌なんだ。って。 あの時、すごい救われたなあ。 それから、嫌だ、という自分の感情をまず受け入れて、そこをスタートにして考えるようになった。 なんで嫌なのか?相手の考え方を受け入れられないから? じゃあお互いどんな考え方を持っているのか?それは歩み寄れるものなのか? こうやって考えていくと、表面的な問題が違う角度で見えてくる。 より根っこの話が見えてくる。 そうすると、前に進める。この時もこれで前に進めた。 (前に進むっていうのは、必ずしも分かり合えるって意味じゃない。分かり合えないという事がハッキリ分かることも、前に進むことだと私は思う。) 私は、自分の本当の心と頭が離れていることにすごい敏感で、ひずみが出やすいタイプだと思う。 でも、どんな人だって、自分の感情を頭で抑え込んでいれば、遅かれ早かれ辛くなってくるんじゃないかな。 感じちゃダメな感情なんてない。 私は、自分の感情をまず受け入れて、そこから紐解いていくことで 自分の行動を選択したり、パートナーと...

「君たちはどう生きるか」を見る②

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、、、ていうような感想だったから、積極的にこの映画の話をあまりしたくなかった。 でも、全く違う視点を得て、その感想が変わった。 WEEK神山で働いている同じ年の女の子と話している時のこと。 「君たちはどう生きるか」の話になった。 私は、正直分からなかった、何を伝えたいのかを分かろうとすればする程分からなくなったと言うと、その子は、 「あれが何か全体として1つのメッセージを伝えようとしているなら、それは分からなかった。けど、色んなシーンで象徴的な画やセリフが散りばめられていて、その中のどれをとっても別にいいし、それは映画を見る人によって変わるものだと思う」 と言った。 刺さった。その通りだと思った。 あの映画から、何を受け取るか、それ自体にその人らしさが出るんだ。 だから、敢えて、情報が多くなっている。 だから、予告や前情報を流さない。 それがイケてるからではなく、真っすぐ、プレーンな心で見た時に何を感じるかがその人を表すからだ。それを偏らせてはいけない。 私は、あの映画の中で、ハッキリとした問題提起がなされると思ってた。 分かりやすいストーリーがあって、分かりやすい問題提起がある。だからそれを探してた。 でも、違った。 あの映画自体が問題提起だったんだ。 あの映画を見る自分自体が、今の自分なんだ。 ぐにゃぐにゃ、粘土みたいな映画。だからこそ「その時」の自分を映し出すんだ。 ゆいなちゃん、すごい。 「宮崎駿」という世間のイメージ・期待を逆手にとって、強制的にスクリーンの前で見る人の偏見や建前を取っぱらったんだ。 戸惑いながらも、考えたこと、印象に残ったシーン、それこそが今の自分。 宮崎さんは、今まで「絵」を作ってきたけど、今回は「鏡」をつくった。そう感じた。 「今まで良いとされている条件には当てはまらず作られていて、強烈な違和感を覚える。 だけど自分が深みを増した時、その作品の見え方が変わるもの。それが本当の芸術」 というニュアンスの岡本太郎の言葉を思い出した。 初めて見た時のあの違和感は、そういうことか、、、。 色々腹落ちした一方で、分かろうとして「分からなかった」と感じてしまった自分はまだまだだと思った。宮崎駿だから、いい。宮崎駿だから、感動するはず。 そういう前提に捉われて見ている自分がいた。 富士山が描いてあるから、キレイ。と同じだわ、、、悔しい。精進します。...

「君たちはどう生きるか」を見る①

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2週間くらい前になるけど、京都の舞鶴八千代館にて「君たちはどう生きるか」を見た。 もう、タイトルがメッセージすぎて、食らうのが目に見えすぎて、良すぎて絶望するのが怖くて、中々見に行けなかった。だから公開からしばらく経ったこのタイミングになってしまった。 舞鶴に滞在中、舞鶴八千代館という渋映画館で見たのだが、 スクリーン入ったら、なんと私だけ、、、!それだけでもうテンション最高潮。 宮崎駿の最新作をスクリーン独り占めで見るという贅沢すぎる環境で始まった。 その日の夜に書いた日記をそのまま書き写す。 ---------------------- 正直、分からなかった。少なくとも今の私には。 「絶対、宮崎さんの思う『君たちはどう生きるか』を私は理解できる」という謎の確信を持っていた分、焦ったし、ショックだった。 全然わからなかった、、、、というか、分かろうとしてしまった。 分かろう分かろうとすればするほどブレて、結局よく分からなかった。 これが宮崎さんの作品て知らないで見たら、私はなんと思っただろうか? それでも、正直に感じたことを記す。 (こう思えるのは、最近、岡本太郎の「今日の芸術」を読んだから。 「○○だから素晴らしい」と思って見るのではなく、自分の感性を基本にする。 だから「分からない」なんてことはそもそもあり得ないし、その時ピンと来ていなくても、その時感じた分だけ受け止めればいいのだ。だから自分の形や深さが変われば、(もしそれが本当に突き詰められている芸術ならば)その時また深みをもって自分の心に届くだろう。 だからまたいつかこの映画を見たいと思った。 少なくとも、この映画を見て、私の中に違和感は残った。完全に。 この違和感を大事にしたい。だから正直に感じたことを記しておく。) 夢を見てるみたいだった。それも特に眠りが深い時に見る長編の夢の感覚とほぼ同じだった。 それから、小さい頃に読んだ岡田淳の「扉のむこうの物語」をすごい思い出した。 螺旋。 ワラワラが昇っていく時、「螺旋」だったな。 「ガラスの仮面」の紅天女の稽古で、北島マヤが自然の中の「螺旋」に気付くシーンがあったな。 「杜人」の矢野さんも、水路を作る時、「宇宙のエネルギーが螺旋だから」って言って水路をくねくねに作ってたな。 「Little Forest」の母からの手紙にも「螺旋」が沢山書いてあったな。 D...

小さな旅

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  会社を辞めました。 頭と心がどんどん離れて行って、虚無になって、 虚無なのにプレッシャーは詰まっていて、ドカン。 訳もなく悲しくなる。悲しくて嗚咽するほど涙が出る。 理由はたぶん複合的で、これが、あの人が、ってことはないんだけど。 そもそも仕事内容に興味がない、結局上司が絶対(大きな組織だから仕方ないって思ってる)、心を開きたい人がいない、「人と人」として話せない、忖度、、、、、 考えれば色々あるけど、でも結局、自分の心を置き去りにしていたことが一番の理由なんだと思う。 だから、置き去りにされて悲しい心と、心を置き去りにしちゃって悲しい頭が泣いていたんだと今は思う。 私にとって、私らしくいる事が、何よりも大切なこと。 今は、頭と心が肩を組んで一緒に歩いてる感覚がある。幸せ。 短い旅をして、自分の感性がどんどん研ぎ澄まされていった。 東京から徳島まで、短い旅をした。 WEEK神山という宿でインターンするために、東京からのんびり3週間かけて、 車で向かった。濃い時間だった。 3週間という短い旅だったけど、自分の中で確実に価値観が変わった感覚がある。 あの非の打ちどころのないお店も、その道中。素敵な場所や人に出会って、色んなことを考えて消化した。 豊かさについて、孤独について、期待について、、、向き合って考えたこと、出会った人のこと、 少しずつここに残していきたいと思っています。

誰かが見つけた正解を集めてるの?

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「誰かが見つけた正解を集めてるの?」  自分に対して発した言葉。 自分の理想に限りなく近い、非の打ちどころのないお店に出会った。 置いてあるもの、考え方、お店のある場所、何もかも。 もはや絶望。私がやりたいと思っていたこと、もうやっている人いましたよ。 例えば、シャンプー・石鹸・歯ブラシ・タオル・お茶・はちみつ等々... 私は、自分が日々使うものを、ひとつひとつ自分の心地いいものに置き換えていく作業が大好き。 できるだけ自然なもので、でもカッコよくて、作ってる人の意志の強さが見えるもの。 日々、色んなお店に寄ったりサイトを見たりして、より良いものを探してた。 「いつかこれにも拘っていきたいな」と思っていたものの正解がそのお店にはあった。 全部、、、いやそれ以上に。 めちゃくちゃテンション上がった。最&高やん。言う事ない。 もうこの会社に就職しようかしら、とすら思った。 けど、帰りの車の中では何かモヤモヤしていた。 松山油脂の石鹸が置いてあった。木村石鹸のシャンプーがあった。 色んな宿にもよく泊まるけど、イケてる宿には大体松山油脂の石鹸がある。 その流れって、どこから始まったんだ、、、? もしかして、、、、、私は、ただ、「それっぽい」お店においてある商品やサイトをたどっているだけなのではないか?大きな流れの中にいる一人にすぎない? そんなの、都内の「それっぽい」カフェ巡りしてるのと変わんないじゃん。ブランド物を持つことで満足感を得てるのと変わらないじゃん。 あの店に置いてあるから、それが「丁寧な生活」の正解なの? 私は、誰かが見つけた正解を集めてるの? ただ、それっぽいものを集めるだけでは、私の感じる豊かさ、満たされとは違う。 それが、本当に素晴らしいものか否かは置いといて。 最初は自分で考えて積極的に選択してきたはずなのに、いつのまにか変わってしまっていた。 「豊かだよ」を他人から渡されたって虚無だ。自分で見つける。自分でつくる。 自分が今まで求めていた理想にほぼ近い空間に出会ったことで、感情の変化が生まれた。 その決意と、自分でつくることの一歩目としてステッカーを作りました。 自分用だったけど、制作単位が100枚からだったのでもし良かったらどうぞ。送料込みで150円にします。DMやLINEで連絡ください。さらさらしてて、本当に紙に鉛筆で書いたような質感です...

思想記

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高校生くらいから、自分の思想が溜まってきたら、思ったことをそのまま紙に書き出す作業を続けている。 ずっと、自分のためだけに書いてきたけど、他人も来れる場所に残してみたくなったから、この場所を作ってみた。 思想記。