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竹細工かもしれない

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私、竹細工職人になるような気がする。   自分が今まで心惹かれてきたものが繋がってきた。 古いもの、 暮らしを楽しむこと、 松徳硝子の齋藤さん、 高知の竹細工インターン、 市川籠店、 クロスステッチ、 ラグ作り、 ポジャギ作り。 今は、自分が竹細工を仕事にしている未来が近く感じられる。 頭の中でカラフルにイメージできて、わくわくして、力が出てくる感覚。 大学院を変えようと決意した時、 研究をやめて就職しようと決断した時、 仕事百貨の採用を受けている時、 と同じ感覚。 「わくわくする未来を見つけられた!」 でも、まだやってみないと分からない。 「竹細工職人の道は厳しい」と市川籠店の店主は強めに伝えてくれた。 でも、「だからこそ面白いんじゃん。だから燃えるんじゃん。」と松徳硝子の齋藤さんは言ってくれた。うん、私もそう思うんだよね!!! この直感を信じたい。私は引き寄せるよ〜! ぐっ! ------------------- 竹細工のすきなところ ・ 日用品である。暮らしの中で使う。 ・ 自然素材。ひごから自分で作れる。 ・ 経年変化するところ。 ・ 手で編む。 ・ 立体であるところ。刺繍とかの2Dより3Dの方がおもしろい。 ・ 細かく編めるところ。細かーく編まれている作品が好き。 ・ 色々な編み方ができて奥深そう。楽しそう。 ・ ひごが平べったいところ。籐や葡萄の蔓のより好き。

猫になくて私にあるもの=期待

 実家には猫が二匹いる。すみちゃんと、たけちゃん。 とにかく可愛がられている。 寝てたら、「見て見て、寝てる~♡」 ご飯食べたら、「ご飯食べたね~♡」 うんちしたら、「うんちしたね~♡」 まあ私も一緒になってこれをやっているんだけど。 だけど、いつもそんな猫たちと飼い主たちを見て思うことがある。 実家にいる時、 私が朝ごはんを食べて、食器をシンクに持って行って、後で洗おうと思って放置していると、 「自分で食べたお皿くらい洗っておいてよ。」と怒られるのだ。 実家でダラダラしていると、 「家にいるんならちょっとくらい家事手伝ってよ。」と言われる。 、、、なんで猫はダラダラしてるだけで褒められて、私は怒られるんだ、、、?? この違いは一体何だ、、、? と、ふと感じた。 私だってうんちしただけで褒められたい。 ダラダラしてるだけで可愛いと言われたい。笑 この違いについて、考えてみると割とすぐに答えは出た。 「私は期待されている」ということな気がする。 みんな、猫が、自分が食べたお皿洗ってくれるなんて1ミリも期待していない。 家事を手伝えるなんて端から思ってない。 だから、やらなくてももちろん怒らないし、落胆もしない。 そこに存在しているだけで肯定される。 だけど、私はお皿洗えるし、家事を手伝える能力を持っている(自分で言いながらバカみたい笑)。 だから、私に期待して、その期待が裏切られたときに怒るんだ。 もはや、存在しているだけでは肯定されない、、、(悲) でも、これって結構深い考察かもな、と思った。 1年前くらいにパートナーとの関係で悩んでいる時のメインテーマは、「期待」だった。 どうしても、相手に期待をしてしまう。 そしてその期待が裏切られると、悲しかったり、その裏返しで相手に当たってしまう。 そして、その事実に客観的に気付いて、自己嫌悪になる。 「私が期待しすぎだったんだ」 「じゃあ、もう一切期待しないようにしよう」と思ったこともあったけど、 「果たして一切期待しない関係って、それってパートナーなんだろうか?」と感じて、結局この時答えは出なかった。 全く期待しない関係って、意味ある? 期待をして、それに応えてくれるから、一緒にいる。 それはお互いに。 他人とパートナーで違う点って、期待しているかどうかじゃないのかな、、、 でも、期待しているからこそ、摩擦も生じ...

小さい世界で生きること

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久しぶりのブログ。 最近全然日記を書いていない。 というのも、悩むことがあんまりないのだ。 目の前の、日々の生活を心地よく生きられている。 最近というと、素敵な野菜屋さんで働き始めた。これが本当に私に合っている。 季節の野菜が可愛すぎる。 野菜のことを学べるし、この野菜たちを美味しく食べたいと思って、毎日の食事への姿勢が変わった。 季節の野菜を、ゆっくり、シンプルに食べる。質素な食事ほど、豊かだと思うようになった。 そのほか、日々の生活の中に楽しいことがたくさんある。 ぬか床を始めた。ぬか床を毎日回して、好きな野菜を入れるのが楽しい。 お味噌汁を作る。洗濯物を干す。 刺繍をする。最近はかぎ編みも始めて、ラグを作ってる(めっちゃ大作になりそう)。 もちろんYouTubeも見るよ。 栗の渋皮煮を作る。干し柿を作る。金木犀のシロップを作る。 1年前から色んなチンキ(植物のアルコール漬け)を作り始めて、今はそれで化粧水を作ってる。 枇杷の葉、オリーブの葉、ドクダミの花、柿の葉、よもぎ、柚子の種、、、 もうすぐ花梨が出てくるから、花梨のチンキも作りたい。 渋皮煮。まあまあうまくできた。 ぬか漬け。楽しすぎるのだ。お気に入りは菊芋。 初めて干し柿作った。 完全に乾く前に食べちゃったけど、マジで美味しかった。 「和菓子の甘さは干し柿をもって最上とする」と言われるのが分かる。 そう、本当に毎日が楽しいのだ。 私は今、小さな世界で生きてる。 今までは、小さい世界で生きることについて、もっと軽く見ていた。 大きな夢を持ち、そこに向かって行動することが「生きる」ことだと思っていた。 社会を変えることに向かって生きることが「正解」みたいな。 目の前の現実をただ生きることは、ある意味諦めた人だと思ってた。 (もしかしたら、私はある意味何かを諦めたのかもしれない。) でも、今、私は日々の生活が楽しい。 だから、日記も特に書くことがない。笑 (今この生活を正当化したいだけなのかもしれないけど、) 目の前の日々を小さく生きることにこそ、真理が隠れている。そんな気もしている。 「こんなんでいいんだろうか? もっと ”ちゃんと” した方がいいんじゃないか、、?」 って思う瞬間もあるけど、しばらく考えるとやっぱり戻ってこられる。 これでいいんだ。

沢田マンションに泊まる。

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【沢田マンション体験記】 竹虎のインターンの後、せっかく高知に行くということで、延泊して観光をすることにしていた。 事前に高知のオススメを友人達に聞いたところ、「沢田マンション」の名前が複数人から挙がった。 初めて聞いた名前だったが、調べてみると「日本最大の違法建築」らしい笑。 パワーワードすぎる。え、なんで捕まらないの?笑 facebookを見ると、なんとレンタルルーム(素泊まり4000円/泊)がある。 どうせなら泊まってどっぷり見学してみよう!潜入捜査だ! ということで電話してみると、いい人そうな感じの女性の方が対応してくれ、8月31日から2泊分、予約できた。 しかし、これが想像以上の恐怖体験となることを私は知らないのであった、、、 当日、建物の前に着いて眺めてみると、それは想像以上に異様なオーラを放っていた。 マンションの真後ろは山。 3階まで伸びた大きなスロープ。 白く塗られた壁は、ところどころ黒くヒビが入っている。 廊下に干された洗濯物。木。 屋上には小屋、そして赤いクレーン。 オーナーに電話して、5階のオーナー自宅玄関にてお金を払う。玄関の天井は一部抜けていた。 でも、奥さんも旦那さんもとてもいい感じの方で、話しやすく、にこやかな方だった。 (ここを建てたご夫婦の旦那さんは既に亡くなられているそうで、娘さん?息子さん?ご夫婦に対応していただいた) 4階の部屋に案内される。 オーナーさんとは解散して、まず部屋を見て回った。 ここで最初の衝撃。 トイレのドアを開けると、便器の蓋の上にドサっと何かが落ちている。 それは、トイレの天井だった。 トイレの天井の一部が雨漏りで濡れて重たくなり、落ちていた。 よく見ると床においてあるスリッパも、びしょびしょに濡れている。 えっえっ、、、、、 「台風大丈夫でしたかー?」 「うん、うちは大丈夫だったよー」 って会話さっきしたけどな、、、これはデフォルトなの? ぎょっとはしたけど、まだ面白がれる余裕があった。 さて、じゃあお風呂はどんな感じなんだろう。 ドアを開けてみると、1畳くらいのスペースに、水色の壁。 排水溝には髪の毛がたくさん、、、 あーーー無理だーーー 今日は近くの銭湯に行くことが決定した。 そして寝室。 レンタルルームは2DKで、備え付けの家具もあり、複数人で泊まれる広さになっている。 敷かれている布団は、、、 ...

売るのは最後でいい。

  私は、「つくっている」という感覚が好きだと分かった。 つくったものを売ったり、それで十分な収入を得たり、そういうことは別の話。 自分の生活の中で必要なものを、自分でつくる。 それが、私にとって幸せであり、豊かさである。 この感覚を言語化できて良かった。   「できること」は、「すべきこと」 「つくれるもの」は、「売ればいいじゃん」 自分も含め、一般的にはこう考えがち。苦しくなる。 でも、売る、というのは一番最後でいいと思う。 自分が必要な分、家族が必要な分、友達が必要な分。それでも余るなら、売る。 すぐに義務や経済性に結びつけず、余白を残して自分の心に素直になりたい。

竹の油抜き

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竹虎インターン3日目は、一日中【油抜き】作業だった。 油抜きとは、 竹の表面についている油や汚れを火で炙って浮かし、拭き取る作業のこと。 (詳しくは竹虎さんのHPに詳しく載ってます。 → こちら ) バーナーの炎の中に竹を入れるのだが、とにかく暑い。 そして、竹が熱い!! 拭き取り用のタオルの上からでも熱いし、たまに手が滑って直接竹に触っちゃって火傷する。 さらに、炙りすぎると、竹の節と節の間の空気が膨張して、 バン!! って竹が破裂する。(「ボヤ」と呼ぶ) もうこれがとにかく怖かった、、、泣 もちろんボヤが起きるとビックリするけど、 ボヤが起きなくても、 「ボヤ来るかも、、ボヤ来るかも、、、」とドキドキしながら熱い竹を拭くのが辛かった。 ずっと黒ひげ危機一髪やってるみたいな。もっと怖いけど。 暑いし熱いしボヤが怖すぎるし、2日目の 目打ち の作業に比べて苦手な作業だった、、、 という感じで、油抜きの作業が終わった時は、「やっと終わった、、辛かった、、、」と思っていたのだが、 夜、寝る前に一日を振り返ると、楽しかったと思えた。 なんでだろう? たぶん、素材に触れていたからだ。 シンプルな作業の繰り返し。 でも、扱っているものが天然素材の竹だったから、自然と癒されていたんだと思う。 一つ一つ太さや模様の違う竹。 竹を火に入れて油を抜く。 竹の性質があるからこその作業という点も、心地よかった。 それに、こんな高知の工場のすみっこで、竹の油抜きをしている自分オモロいな笑、とたまに俯瞰して思ったりしてた笑 こんな所でこんな作業を楽しめている自分が好きだ。と思った。 私は、素材に触れていると癒されるということ。 また新しい気付きが増えて嬉しい。 油抜き前の竹。表面が白く曇っている。 油抜き後。艶が出て色も濃くなる。

じゃあ私の仕事って一体なんなんだ!!

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今、高知にいる。 高知にある竹虎という竹細工工場のインターンに参加するため。 インターンに参加して思ったことを記録しておく。 そもそもインターンに参加しようと思ったのは、手仕事に興味があったから。 去年会社員を辞め、自分にとっての違和感のない生き方を探し始めた。 その中で、手仕事が好きということを再認識して、手仕事を仕事にすることに興味があった。 竹虎の商品をたまたま購入し、インターンの存在を知って、参加することにした。 初日で気付いたこと。 私は、手仕事を仕事にしなくてもいいのかもしれない、ということ。 ちょっと前、松徳硝子というガラス工場を見学させてもらったけど、その時と同じ印象を受けた。 工房ではなく、工場。 作品というより、製品。 確かに扱っているものは職人さんが手仕事で作っているんだけど、その前にビジネスだった。 つくりたいものより、売れるもの。 より質を高く、安価に。 なんていうんだろう、これはこれで自然なことだし、 竹や硝子の文化を守っていくためには儲けないと続かない。それはその通りだと思う。 だけど、私個人がそれをやりたいかと言われると、違うと思った。 私が「手仕事」という言葉を使う時、「作家性」の意味合いが含まれていることを認識した。 私にとっての手仕事は、趣味でいいのかもしれない。 自分が欲しいもの、生活に必要だと思うものを自分でつくる。 それだけで、私にとっての豊かさは満たされると思った。 できることを、すべきことにしなくてもいい。 私は手仕事が得意で大好きだけど、でもそれを収入のメインにして生計を立てる義務はない。 「得意なこと、好きなことを仕事にしなきゃいけない」と、いつの間にか自分にプレッシャーをかけていたことに気付けた。 やりたくないことをやる義務もないけど、 好きなことを仕事にしなきゃいけない義務もない、、、、、。 、、、でも、じゃあ私の仕事って一体なんなんだー!!

ビュッフェに行くと、欲が出る。

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久しぶりにビュッフェに行って思ったこと。 ビュッフェがあまり好きではなくなった。ことに気付いた。 なぜかというと、自分の中に欲が生まれるから。 自分の中の欲を感じて、貧しくなるから。 友達に誘われて、一人 2,200円のランチビュッフェ行った。 オーガニックにこだわっているお店で、どれも美味しそうだった。 「全種類試したい。好きなものをお腹いっぱい食べたい。元とりたい。」 わざわざ考えなくても、無意識にそう思いながら食べてた。 次は何を食べようか考えながら、目の前にあるものを食べる。 、、、、、全然味わえない!! え、これ、今わたし全然味わえてない。 頭がどんどん先のことを考えて、目の前の料理をゆっくり見れない。 もしかしたら、私が特に卑しいからこう感じるのかもしれないけど、割とみんなそうだよね? なんともったいない、悲しい食事なんだ。と、そう思ってしまった。 かといって、じゃあ、 ビュッフェに行ったとしてもそんな事を気にせず、ゆっくり・ちょっとだけ・腹八分目で楽しめるのかって言われたら、そんなことはできない。 どうしても考えちゃう。 だったら、 最初から限られた量を提供してもらって、それをゆっくりと味わいたい。 限られた量だからこそ、その料理のすみずみまで味わう。 限られた量だからこそ、その有難みを感じる。 そっちの方が、私にとってよっぽど豊かな時間だ。 小さい頃や、大学生くらいまで、 てか、つい最近まではビュッフェ大好きだったような気がする。 好きなものを好きなだけ取って食べるのって楽しいよね。 って思ってたんだけど、久しぶりに行ってみて、せかせかして食べてる自分に気付いてしまった。 「食べ物を味わう」ってことを知ってしまったようです。 確実に価値観が変わってきている。 忘れられない、あの宿の料理。

少し前に植えた、ディルの種から芽が出てきてとても可愛い。

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  このところ、発信しようという気持ちにならない。 なぜか。 私は、生活に満足しているみたいだ。 引っ越したこの部屋と、この町を、いまのところとても気に入っている。 少し前に植えた、ディルの種から芽が出てきてとても可愛い。 古家具屋で買った小引出しが、カウンターの隅にぴったりで嬉しい。みつろうを塗って色を深くした。 母の友人から貰った竹ザルで玉ねぎを干したら、甘くて、旨みが詰まって、とても美味しい。皮は染め用に取っておいている。早くたまれ。 赤しそシロップ。実山椒の塩漬け。季節のものを保存食にすることを考える時間はわくわくする。 次々とやりたいことが浮かび、そしてそれをする時間がある。 今はその時間を楽しみたい。

ドクダミ探訪

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ドクダミの花のチンキがつくりたい。 最近、化粧水は自分で作っているのだけど、そこに使いたいから。 ドクダミの花の時期は、5月終わり~6月初め。 まだかまだかと待っていた。 そして、ちょっと前から咲き始めたのである、、! スーパーの帰り道。駅までの行き返り。目をドクダミモードにして探す。 通ったことない道を入ってみたり、遠回りして探しているうちに、ドクダミがある場所の特徴を把握してきた。 ・日当たりのいい場所にはなく、少し陰になっていて湿度のある場所。 ・綺麗に手入れされている植え込みにはまずない。(マンションの植え込み、公園等) ・狙い目は、学校の裏。室外機とかがおいてあるらへん。 ・もしくは、駐車場とか材木屋さんとかのちょっとした壁沿い。 楽しい楽しい。 何もなくて面白くないと思っていた都会も、まるで宝探しのステージのよう。 ちょこちょこと集めていたら、意外に集められて、チンキをつくることができた。 今回は、米焼酎を使った。 少しずつ琥珀色になってきて、あのドクダミ独特の香りは消えていくらしい。 化粧水にも入れてもいいし、虫刺されやかゆみ止めにも使える。 わくわく。 秋になったら、花梨・柚子でも作るんだ~ パワーアップしていく化粧水。 生活。 ドクダミスポットを見つけると上がるテンション ここモリモリじゃん! 大満足。エキスが出てくるのが楽しみ。

「あわいもん」に行く

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 「あわいもん」に行く。 たまたま知って、ちょうど期間中だったので、ふと行ってみようと思った。 建物の中では、作家さんの作品の展示と、お菓子の販売と、カフェ。 カフェはめちゃくちゃ並んでいたので、作品を見るのと、お菓子の持ち帰りだけにした。 (並んでいる人たちの「強者」感が強くてびっくりした、、、笑) 作家さんの作品は、とても良かった、、、。 すごく洗練されていて完成度が高いのに、素材感や土着感を強く感じるものばかり。 素材に対するリスペクトと、高い集中力、拘りを感じた。 え、これを企画している人はいったい何者、、、? 調べる。 お菓子とアートのひと。 12年前にブランドを立ち上げたらしい。私も、12年続けたらこんな感じになれるのだろうか、、、悔しさと焦りが出てくる。 彼女の表現の手段はお菓子だったんだな。 しっかり表現できている上に世間に認められていて、いいなあ。悔しい。 じゃあ、私の表現の手段は? 対話?文章?生物学?、、、定まってない。 だけど、結果を急がず、自分が「今」心惹かれるものを辿っていけばいいんだ。 絶対そうだ。分かっている。分かってるけど焦っちゃう。 大事なのは遠回り。 遠回り、遠回り。

濱口 竜介「悪は存在しない」を見る

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(※これから見る方、ネタバレします。)  今まで見た濱口竜介作品の中で、一番好きかも。 やっぱり、映画の中の時間が、現実の時間と同じ速さで流れていた。 回想シーンや、時間軸が行き来することがないから、自然と没入していく感じ。これはHappy Hourを見た時の感覚と同じだった。 でもやっぱり、演者はめちゃくちゃ棒読みで、「これ大丈夫ーーー??w」って最初思うんだけど、途中からはホントに違和感がなくなるんだよね、なんなんだろうあの現象は。 マンガの吹き出しを読んでいるような、小説の「  」を読んでいるような。 だからこそ、演者の上手い下手に左右されず、逆に感情移入しやすくなるってことなのかな。。。不思議。 それから、 途中、「これ、めちゃめちゃよくある話じゃん」ってことに気が付いた。 地方で新しい施設を建てようとしてる都会の人と、それに反発する地元住民。 だけど地元の人の生活を知る中で、段々と打ち解けていくハナシ。 展開なんて、完全に読めたはずなのに、そういうのが自分は一番冷めるはずなのに、 何故か普通に引き込まれていた。 「世間でよく聞くストーリーって、頭では知っているつもりでも、自分が実際に経験したら全然違う」 この感覚に近かった。 つまり、時間の流れを「映画」にせず「現実」と同じにすることで、まるで自分がそこにいるように、感情のちょっとした変化にも付いていける。 そうすると、まるで自分がそれを経験しているように没入できる。 だから、客観的に見ればよくある話なのに、すごく引き込まれる。 ああ、じゃあこれは、結局グランピング施設がとてもいい形に落ち着きました!ってハナシになるのかな?なんて思っていた。 からの衝撃の展開、、、、え、怖!! で、そのまま、何も分からないままクレジットが流れ始める、、、えーーーー 今までがものすごくリアルだったからこそ、最後の展開が際立っていた。 あの、何も分からないまま放置される感じ。 ぺぺぺ(渡邉知樹さん)の個展で読んだ絵本「ブタミの憂鬱」が思い出された。 すべてのシーンのリアルが、ラストを際立たせるためにあるような気がした。 「八日目の蝉」を見た時と同じ感覚。 時間も2時間だし(Happy Hourは5時間超えw)、 内容も、コロナやリモート、マッチングアプリが散りばめられてて、今っぽくてとても見やすかった。 おすすめです。...

父からの返事

  しばらくして、父からの返事が来た、、、! 「はなちゃん、お手紙ありがとう。 父も一昨日の朝、おもわず強く言ってしまって気になってました。ごめんね。 そして率直にはなちゃんが感じていることを伝えてくれてとっても嬉しく思います。はなちゃんが言っていること、一つも間違っていないし全く同感です。 なぜテレビのニュースを見ていてああいう言い方になってしまうか、ちゃんと話さないと分からないし、人の気持ちや考えを無視した物言いに聞こえてしまうのは当然だと思う。自分のコミュニケーションが不足していたと反省しています。 折角の機会なので、「なぜ怒っているか」を少しだけお話するね。」 ここまでで、もう十分だった。 まっすぐ受け入れてもらえて、嬉しかった。 怒るんじゃないか、跳ね返されるんじゃないか、って不安だったから。 伝えてよかった。 この文章の後、父は、なぜニュースに対してああいう言い方になってしまうのか、過去の経験を含めて説明してくれた。 内容は省くけど、父は最後にこうやってまとめた。 「そんなことをいつも思っています。 真面目に頑張っていたら、ひとそれぞれ幸せな暮らしがおくれる、そんな日本にしたいなって思っています。」 なぜ父が起こっているのか、その理由や気持ちが理解できた。(全てを共感できたわけではないけど、でも理解できたから十分。) 詳しく説明してくれて、ありがとう。 そして、受け止めてもらえて嬉しいです。 前よりも、いい関係になれたかな。 期待するのって、怖い。 けど、あの時、思い切って期待してみて良かった。

父に手紙を渡す。

  車の中。 ぐるぐると考えていた。 さっき、父の部屋に手紙を置いて出発した。 そのうち気付くだろう。 怖かった。 確実に、「私が」波紋を起こしている。 私が手紙を渡さなければ、今までと何も変わらない。 今の父との関係は、とっても良好だと思う。 この関係性が、崩れてしまうかもしれない。 手紙を渡すことで、作用が起こる。 避けて通れる作用を、私は自ら起こす。 怖い。 もしかしたら、伝えたかった感情は、自分勝手な感情なのかもしれない。 傷付けるかもしれない。 そこまで言う必要のあることなんだっけ、、、自信がなくなってくる。 「良かれと思って」 という、理由や責任を相手に押し付ける悲しいパターンなのか、、、? 波風立ててごめんなさい。 それでも、私は、私の、あの悲しかった気持ちを優先させます。 関係性がより良くなることを期待して、そこに希望を持って、私は手紙を渡します。

父に手紙を書いた。

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 父に手紙を書いた。 朝、ちょっとしたことがあった。 けんかってほどではないけど。 父は、色んなニュースに対して否定的な意見を言う癖がある。 その日も、テレビを見ながら結構強めに言っていた。 いつもは、私は悲しい気持ちになりながらも、黙ってスルーするんだけど、 その日のニュースは私も以前住んでいた地域のことで、内容にもある程度共感できたからこそ、特に気になってしまった。 「お父さんて、変化に対していつも文句言っているよね」 つい、言ってしまった。ポロっと口から出ちゃった感じ。 結構強めに言い返された。 内容はあんまり言いたくないから書かないけど、そのニュースに対する私の知識のなさを指摘してきたような感じ。 そのまま会話は終了。直後、父は気にしてない風だったけど、気にしてない“風”だと思う。 父は出勤してった。 、、、図星だったんだろうなあ。 後からジワジワとそんな事を考えていた。 たぶん、図星だったから、つい反発して言い返したんだろうな。マウント取ってきたんだろうな、、、ダサい、、、。 本当は、「え?そうかな?いつもそう感じてるの?」とか言ってほしかった。 受け入れてもらって、建設的な話をしたかったなあ。 ニュースに対して強めに言っているのも悲しいけど、あの対応も悲しくて、その日一日ずっと気になっていた。 今、実家には、春から大学生になって上京してきた従妹が一時的に居候中で、 夜、ふと彼女に相談してみた。 彼女は、私が思ってた以上に大人で、しっかり考えてて、おばさんびっくりだよ。笑 手紙書いてみたら?と言われた。 私は、正直諦めていた。 もうここまで来たら人は変わらないだろうし、今さら言って波風立てるより、そっとしておいた方がいいだろうって。 でも、彼女は、(本人は無意識だろうが)まだ「理解し合える」という希望を持っている。 だから、手紙を書いて伝えるという行動を思い付くんだろう。 私は、彼女の持っている希望に惹かれた。 本当は、理解し合いたい。 だけど、「結局人と人は理解し合えないんだ」と思わされる経験を何度もして、絶望して、もう諦めてた。いい意味でもね。 だから、今回は、彼女の助言通り、素直に手紙を書いてみようという気になった。 伝えてみよう。どう受け止められるか分からないけど。 そう思って、父に手紙を書いた。 物事に対して否定的な意見を言うこと、 それ...

占い

  気付いたら、占いの捉え方が変わってた。 昔: 「全てのものは素粒子でできていて、科学的に証明されないものを信じることは無意味。 自分以外のものに大切な判断を任せたくない。 結局自分のことは自分が一番よく分かっているのに、見ず知らずの他人に干渉されたくないわ。」 ちょっと極端だが、まあこんな感じ。笑 今: 「合ってるとか合ってないとか、占いはそもそもそういうことを厳密に考えるものではない。 占いをしているその時間を楽しむ。 どんな占いの結果だったとしても、それに対してYesかNoかは分かる。何でもいいから考えるきっかけをくれるもの。 結局、大切な判断は自分が決めることに変わりはない。」 こう見ると、むしろ昔の方が占いの結果をピュアに受け止め過ぎてしまうから、逆に反発しているように見えるな、、、笑 昔は自分に自信がなかったから強がってたのかもしれない。 最近、タロット占いを受ける機会があって、すごく楽しんで聞けている自分に気が付いた。 なんだかすごく嬉しい変化。 昔、暇つぶしで友達と手相占いに行って、占い師さんが定規を使って手相を見ているのを見て、「私にもできるじゃん」って思って詳しく聞きまくったらすごい嫌な顔されたのを思い出した。笑 昔はこんな感じで超理屈女だったから。(今もか)

感情を手放す

感情を手放す。 ぽんっと手放す。 怒りを、大事に大事に抱えているのは自分。 実は、怒りたくて怒ってる。 大事に抱えていた怒りの種を、ぽんっと手放す。 そうすると、怒りは無くなる。 それが最近少しだけできるようになった。 何でもいいから、楽しい時間を多くしよう、と思えるようになったのも最近のこと。 誰かの気になる発言、嫌な出来事、ちょっと思い出しちゃった過去の記憶。 そういうのって、ずーっと、ずーーっと考えれちゃう。 それで、どんどん気分が下がって、答えは出ないのに考え抜きたくて、 ずっとはまって抜け出せない。 そういう時、何か楽しいことが起こったり、例えば誰かが楽しくさせようとしてくれても、素直に受け止められない。 今考えているぐるぐるを、放り投げちゃいけないと思っていたから。 ちゃんと考え抜いて、私なりの答えを出してからじゃないと、楽しんじゃダメだと思っていたから。 「とにかくその時間が楽しければ何でもいい」 ある人と話している時、そんな事を言っていて、いつもだったら「適当な人だな~」と思うんだけど、その時はなぜか、私もトライしてみようという気になった。 目の前で起こっている楽しいことに心を向ける。 ぐるぐるの答えは出てないけど、捨てる!放り投げる! ちょっとわざとでも、無理やりでもいいから「楽しいね」って言う。 意味なんてなくていいから、楽しいことを、楽しむ。 楽しい時間を過ごすことに意味があるんだと知った。 負の感情って意外に手放せるかも。 最近、自分の性格が少しずつ変わっているのを感じる。

手仕事とスイカゲーム

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香りの調合を出店をするということで、看板が必要になった。 なんか、普通の看板はやだなあ、、、 ということで、看板を縫うことにした。 分厚い紙に、きりで穴を開けて、レース糸を二本どりしたものを波縫いしていく。 今回は額縁みたいにしてみた。 この作業が、もう楽しい。 レース糸は絡まるし、まず穴を開けてからだからものすごく時間がかかるんだけど、 中毒性がある。 他のこともやらないといけないのに、手が止まらなくて、、、 結局、朝始めて気付いたら夜になっていた。 なんかこの感じ、知ってるな、、、 と思ったら。 スイカゲームです。 去年妹に教えられてから、もう誰もやっていないのに私だけ続けてるゲーム。 しかも海賊版。(ウェブでできる無料のやつ) 物理的にスイカ2個は作れないってハッキリしてんのに、 だからもう何もやる意味がないのに、何となく開いてやってしまう。 なんというか、単純作業に集中することで脳みそが休まる感じがして、ついやってしまう。 この感覚が、看板を縫っている時の感覚ととても似ていた。 よく考えたら、昔からこういう手仕事、縫物、細かい作業が大好きだった。 さらに、ただ動物に飛び移って走り続け、走行距離を稼ぐゲームや、 ひたすら定食を提供するゲームなど、「何の意味があるの」系のゲームもハマりがちだった。(だから敢えて始めないようにしている) 点と点が繋がった。 私は、無意識のうちに思考が巡って、常に頭の中で何かを考えてしまうタイプなので、 こうやって意識的に無心になれる作業を求めていたのだ。 まあ、「これ分かったからなんなの」ではあるが、 個人的にピーン!と電流が走ったことだったので書かせてください。 手仕事とスイカゲームの決定的な違いは、生産性の有無。 これから、スイカゲームの時間が手仕事の時間に変わりますように。 縫う看板のご依頼、お待ちしております。

現在位置を確認する→進む

よく分からない。 なんか気分が晴れない。 なぜか微妙な気持ち。 ↓  脳内そのままを紙に書く ↓ 思考が繋がっていく ↓ 紙に残っていくから、思考が空回りしない。 ↓ だんだんと、原点に戻っていく。 ↓ 現在位置が分かる ↓ じゃあ、次に何をすればいいのか分かる ↓ もう後は行動するだけ たまたまノートをあんまり書けてない日々が続いて、気付いたらモヤモヤが溜まってた。 ふとした時(移動中、信号待ち、お風呂)に考えてみるけど、完結しないまま時間が終わる。 だめだ!と思って、ちゃんと時間を取って紙に書く。 どんどん整理されて、なんだ、スッキリ!! こうなったらすぐ行動できちゃう。行動したら、また次が見えてくる。 私にとって、やっぱり言語化は大事なんだと、改めて気付かされる日。

今すぐ成立なんてしない。(働くことにする)

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  最近の、不安、焦り、、、必死感。 ちょっと前まで、神山、ヴィパッサナー、ブータンと、インプットが沢山あった。 そして、対話と香りの調合を始めた。 でも、なんだか今は停滞してる感じ。 そして、この不安をなくそうと焦る。でもそれも空回りしてる感覚。 たぶんこの感じは、きっと周りにも伝わっている。 というか、自分が一番違和感を感じている。 なんなんだろうこの不安感、、、、 あ。 今すぐこの1本だけで成立させようとしてる。 だから必死になったり、焦ったり、不安になっているんだ。 今すぐ成立なんてしないよ。 いつのまにか。じっくりと。時間をかけて。こういうものだ。 生き急いでいた私。たまに見かけるなあ。 今までは、「種」を探してた。 そのために、たくさん動いていた。 で、ささやかだど、見つかった。 種を見つけた。 だから、これからは、その種をじっくり育てる期間なのだ。 それに気が付かず、種を見つけた瞬間それが木になり果実がもらえるものだと思い込んでいた私。生き急いでるねえ笑 今までとフェーズが変わったことに気が付いていなかった。 だから、前と同じような変化や刺激を求めていたんだと思う。 じゃあ、これからは、「生活」をしながら種を楽しんで育てよう。 今は、「好き」「楽しい」を大切にする時期だと思う。そこから生まれてくる。 じっくり、ゆっくり、楽しみながら育てよう。 、、、じゃあ、この種以外で食べていけるように、仕事を探さなきゃね。 ということで、どこかで働くことにする。 種を探す。そのためにたくさん動く。 種を見つけた。ささやかな種だけど。 ここから、時間をかけて、ゆっくり育てる。 そういうものだ。 なのに私は、、、

「野の医者は笑う」を読む

東畑開人「野の医者は笑う」を読んだ。 臨床心理士である東畑さんが、沖縄の怪しいヒーラーの世界に入り込み、実際に治療を受けて回りながら「心が癒されるとはどういうことか」について考えていくノンフィクション。 とても面白かった。 いくつか感想を持ったので、メモとして残しておく。 __________________ ●臨床心理学に興味を持った。 「心」を学問の研究対象として捉え、メソッドや考え方を体系的に整理する。 もちろん臨床心理学がすべてではないし、おそらく受け入れられない部分もあるだろうけど、 参考として学ぶことに意味はあるように感じた。 ●ネタバレになってしまうが、 「『癒された』という状態には様々な解釈があり、『癒し方』によってその定義が違う。」 という考え方。これにとても納得感が持てた。 臨床心理学、コーチング、スピリチュアル、、、様々な「癒し方」があり、それぞれの定義が違うために作者は混乱していたが、 結局、「癒しは1種類ではなく、色んな定義がある」という結論に至る。 絶対的なものはなく、全部one of themに過ぎない。 だから、今の自分により自信を持てた。 私はこのまま地で進んでいく! でも、じゃあ私にとっての「癒し」とは何なのか? ●「治癒とはある生き方のことなのだ。心の治療は生き方を与える。そしてその生き方はひとつではない。」 この言葉もとてもしっくりきた。 治療とはある生き方を与えること。つまり考え方を与えること。でもその考え方に絶対はない。 このことを認識していない場合に、別の治療法を否定してしまうのだろう。 認識したらいいのに。そうしたら、「この人にはどんな “癒し” が合うのだろうか」という議論になっていくのにな。 一方で、私も、私が考える「よい」生き方だけが「よい」生き方ではないということを肝に銘じなければならないと思った。 1枚のカードしか持たず、さらにそれを常に切り続ける(「切らない」という選択をしない)時、私は相手を傷つけることになるだろう。 逆に、もし、私が複数の生き方を知っていて、それを相手の求めている者に応じて変えられるなら、対話の幅がぐっと広がるのではないか? そうなりたい。でもそれには、別の生き方を深く知り、導く方法を知っている必要がある。 ●では、私にとっての「癒し」とは何なのか?「生き方」とは何なのか? 「自分の本当...

わたしの名刺のつくりかた

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素「moto」のカードをつくりました。 とても好きな雰囲気のカードになった。 気に入っています。 カードをつくる前に、考えてたことが2つ。 1つめは、「捨てられないカード」にすること。 ショップカードって、可愛い~と思って貰っても、結局家に帰ったら捨てちゃうことが多い。 ちょっと心を痛めながら、正直捨てちゃう、、。 だから、印刷された、ただ情報を伝えるだけのカードはつくりたくなかった。 一つ一つ違って、「あ、人が作ってるんだ」と分かるカードをつくりたかった。 2つめは、言葉以外の「何か」を伝えること。 対話をやってみて、 一瞬でも会って話したことのある人は、私の活動にとても興味を持ってくれるということに気付いた。 旅先でたまたま会った人、お店でちょっと話した人。 きっと、私の声・雰囲気・表情とかの、言葉以外の情報から伝わるものがあるんだと思う。 でも、私が直接会える人数には限りがあるし、 言葉以外の「何か」を伝えられる「もの」をつくりたかった。 だから、手書きで、手作りで。 「わたし」をぎゅっと詰め込む! 下に、カードをつくる過程を載せてみます。 つくるのは手間や時間がかかるけど、好きな曲をかけて、集中しながら、想いを込めながら作業する時間は、とても充実している。 このカードは、私の分身。 私の代わりに色んな人に会って、 言葉やデザイン以外の「何か」を、伝える。 色んな人に届くといいなーー! 香りの調合 では、その方のイメージに合うカードを選び、 商品に同封してお渡ししています。 もしご興味があれば、こちらもどうぞ。 _____________________ 【わたしの名刺のつくりかた】 画用紙に、オイルパステルで絵を描く。 この絵、すごく気に入っている。 切る。 サージカルテープを張る。 (今回は細いテープも試してみた) 切る。 「moto」を書く。 完成! 裏も、全部手書きです。 最近買った万年筆で。 QRコードものりで貼ってます笑 想い、こもってます。 やっぱり手仕事は楽しい。 たくさんの人に届いて、またつくりたい。